フランソワ=アルフレッド・ドロブ François-Alfred Delobbe, 1835 - 1920



(上) François-Alfred Delobbe, "Pyrame et Thisbé", photogravure par Goupil, 258 x 157 mm, 1878 当店の商品です。


 フランソワ=アルフレッド・ドロブ(François-Alfred Delobbe, 1835 - 1920)は、十九世紀後半のフランスで成功を収めた画家のひとりです。

 フランソワ=アルフレッド・ドロブは、1835年にパリで生まれました。パリの高等美術学校(l'École nationale supérieure des beaux-arts, ENSBA)はフランス共和国における最高の美術教育機関ですが、ドロブは弱冠十六歳のとき、この学校に入学を果たしました。

 ドロブはENSBAで学んだほか、同校の近くにアトリエを構えるトマ・クチュール(Thomas Couture, 1815 - 1879  註1)にも師事しています。クチュールのアトリエでは、師から学ぶとともに、やはりクチュールの弟子であったエドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)からも影響を受けたと考えられています。ドロブはウィリアム・ブグロー(William Adolphe Bouguereau, 1825 - 1905)のアトリエでも学んでおり、神話を題材にした作品や肖像画に専念するよう指導を受けています。

 ドロブは 1861年のサロン・ド・パリに自分の母親の肖像を初出品して好意的な評価を受け、その後も毎年の出品作が高く評価されました。1859年12月31日、八つの区がパリ市に編入されました。これに伴って八つの区役所が新設され、それぞれの建物内部に壁画を描く必要が生じました。このうち十五区の区役所について、パリ市当局はドロブに壁画制作を依頼したのですが、これは 1860年代の初めにおいて、ドロブが芸術家としての地位を既に築いていた証しです。

 この頃ドロブは、やはりブグローの弟子であったアルフレッド・ギュイユー(Alfred Guillou, 1844 - 1926 註2)と親交を結びます。友人の故郷コンカルノーを訪ねたドロブは当地の歴史と風物に魅了され、1870年代後半からはたびたびこの町に滞在して、素朴で美しい数々の名作を描きました。ドロブは夏にコンカルノーを訪れてスケッチをし、そのスケッチをパリに持ち帰って、冬の間に仕上げる場合が多くありました。コンカルノーでのスケッチをもとにドロブが描いた作品には、印象派のような明るい光が溢れています。




(上) François-Alfred Delobbe, "Jeunes dentellières de Beuzec-Conq", c. 1905, Musée Départemental Breton, Quimper


 ドロブが後半生に描いた作品は、ほぼ例外なく、女性や少女が働く姿を題材にしています。上の写真で示したのは 1905年頃の作品で、ブルターニュの伝統工芸であるレースを編む二人の少女を描いています。この絵はカンペールのブルターニュ地域圏美術館(Musée Départemental Breton)に収蔵されています。ドロブがブルターニュの風物を描いた後期の作品群は、サロン・ド・パリにおいて高く評価されるとともに、絵画を購入する美術愛好家の人気を集めました。



註1 トマ・クチュール(Thomas Couture, 1815 - 1879)は、アントワーヌ・グロ(Antoine-Jean Gros, 1771 - 1835)とポール・ドラロシュ(Paul Delaroche, 1797 - 1856)の弟子で、歴史画を得意とする画家ですが、優れた教育者でもありました。パリ高等美術学校(ENSBA)を卒業後、1847年のサロン・ド・パリに出品した油彩の大作「頽廃のローマ人たち」("Les Romains de la décadence", 1847)が高く評価されたことにより、翌 1848年にレジオン・ドヌール・シュヴァリエを受章しました。



(上) Thomas Couture, "Les Romains de la décadence", 1847, Huile sur toile, 472 x 772 cm, Musée d'Orsay

 レジオン・ドヌールの受賞後、クチュールは母校 ENSBA のそばにアトリエを開設し、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Cécile Puvis de Chavannes, 1824 - 1898)やフランソワ=アルフレッド・ドロブ、エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)たちを教えています。マネはときにクチュールの意見に反発しながらも、1850年から六年半にわたって指導を受けています。


註2 六角形のフランス本土は、北西の角に相当するブルターニュが西に向かって半島状に突き出し、ビスケー湾の北端を形成しています。ブルターニュの西端に近い南側にはフォレ湾(la Baie de la Forêt)があり、コルヌアイユ(la Cornouaille コーンウォールと同源語)と呼ばれる小さな半島がフォレ湾に突き出しています。この半島の南側の海沿い、カンペールの南東に、漁業が盛んな古い町、コンカルノー(Concarneau ブルターニュ地域圏フィニステール県)があります。




(上) Arrivée du pardon de sainte Anne de Fouesnant à Concarneau, 1887, Huile sur toile, 281 x 222 cm, Musée des Beaux-Arts, Quimper


 アルフレッド・ギュイユー(Alfred Guillou, 1844 - 1926 註2)は、1844年、コンカルノーに生まれました。1862年にパリに移りましたが、1868年のサロン・ド・パリに「ブルターニュの若き漁師」("Jeune Pêcheur breton")を出展した後、コンカルノーに戻り、当地の風物を好んで描きました。代表作としては、上の写真で示した「聖アンナのパルドンの到着」(1887年)の他、「コンカルノーのイワシ漁師」("Les Sardinières de Concarneau", 1896, Musée des beaux-arts de Quimper)、「コンカルノー マグロ漁船の荷揚げ」("Débarquement du thon à Concarneau", 1902, Musée d'art et d'histoire de Saint-Brieuc)が挙げられます。

 ギュイユーは友人である故郷の画家テオフィル・デロール(Théophile Deyrolle, 1844 - 1923)の娘と結婚し、デロールとともに、コンカルノーに集まる画家グループの中心人物となりました。ギュイユーのグループは、フランソワ・アルフレッド・ドロブをはじめ、ブルターニュの風物を題材に選ぶ画家たちに、大きな影響を与えました。



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