スティール・エングレーヴィング 「キドロン川の谷」
Valley of The Brook Kedron
原画の作者 J. M. W. ターナー (Joseph Mallord William Turner, R.A. 1775 - 1851)
版の作者 E. F. フィンデン (Edward Francis Finden, 1791 - 1858)
画面サイズ 縦 92 mm 横 139 mm
イギリス 1834年頃
≪この版画のエングレーヴァーについて≫
この版画のエングレーヴァー、エドワード・フランシス・フィンデン(Edward Francis Finden, 1791 -1858)とその兄ウィリアム・フィンデン(William
Finden, 1787-1852)は19世紀イギリスでもっとも優れたエングレーヴァーで、数々の本や美術誌「アート・ジャーナル」 (The Art Journal) の美しい挿絵で知られています。
1833年から数年間にわたって製作・発表したバイロン(Lord Byron, 1788-1824)のシリーズ、また1838年から15部に分けて発表された「ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」
(Gallery of British Art, 1838-1840)は版画史上に大きな足跡を残しています。
≪この版画について≫
チャールズ・バリー卿のスケッチに基づいて、オリーヴ山のふもとを流れるキドロン川とアブサロムの墓を描いたターナーのエングレーヴィング。
オリーヴ山はエルサレムの東にある丘です。イエス・キリストはろばの子にまたがり、なつめやしの枝を手にした群衆に迎えられて、オリーヴ山からエルサレムに入城しました。(マタイによる福音書21:1-11他)ゲッセマネの園があるのもオリーヴ山の斜面です。
このオリーヴ山と聖都エルサレムの間には谷があって、キドロン川という小川が流れています。画面の右下に見える小さな流れがキドロン川です。
画面中央に見えているのは聖都エルサレムで、いちばん手前に見えるのはエルサレム南端のシロアムの村です。イエスが盲人にシロアムの池で目を洗うように命じて、その盲人が癒された奇蹟で知られています。(ヨハネによる福音書9:1-12)
左手に見える建物はアブサロムの墓です。アブサロムは旧約聖書時代のイスラエルの最も偉大な王ダヴィデ(在位
B.C. c.
1000~960)の三男ですが、異母兄弟であり王の長男であるアムノンに妹タマルを犯されたために、アムノンを殺して逃亡します。父王ダヴィデはアムノンの死を嘆きますが、5年後にアブサロムを赦します。
アブサロムはその後ダヴィデに反逆し、イスラエル王を名乗ってエルサレムに入城します。ダヴィデは家臣たちとともにオリーヴ山に逃れますが、アブサロムはイスラエル軍を率いてダヴィデを討とうとしてダヴィデの家臣ヨアブに殺され、ダヴィデ王は反逆の息子アブサロムの死を嘆き悲しみます。(サムエル記下13~18章)
アブサロムは生前、キドロンの谷に記念碑を建てていました。後継ぎの息子がなかったので、自分の名を後世に残すために碑を建てたのです。(サムエル記下18:18)今日「アブサロムの墓」と呼ばれる建造物こそがその碑であると言われています。墓とはいってもアブサロムの遺体がここに納められているわけではありません。
アブサロムの墓はその場所の岩から彫り出したもので、下部にはイオニア式列柱と、その上にはドーリス式フリーズが浮き彫りになっています。エンタブラチュアの上に方形の上階と、さらにその上に尖った屋根が乗っており、頂部には葉形の飾りがあります。
イスラエル人がアブサロムに感じる憎しみは大きく、前を通る人がみな石を投げて行くので、アブサロムの墓は半分埋もれています。
参考 1875年頃に撮影されたアブサロムの墓
同上
テート・ブリテンが収蔵する版画 1988年に購入 Rawlinson number: 592 ※ 当店の商品と同じものです。
版画を初めて購入される方のために、版画が有する価値を解説いたしました。このリンクをクリックしてお読みください。