スティール・エングレーヴィング 「コンコルド広場」
Place de la Concorde,
Paris
原画の作者 トーマス・アロム (Thomas Allom, 1804 - 1872)
版の作者 サドラー (John Saddler, 1813 - 1892)
画面サイズ 縦 126 mm 横 190 mm
イギリス 1860年代
数あるパリの広場のなかで最も大きいコンコルド広場(La Place de la Concorde)はチュイルリー公園(画面右側)の西隣にあり、ここを始点にシャンゼリゼ通りが西、つまり画面左方向に向かって伸びています。手前はセーヌ川、奥に見えるギリシア神殿のような建物は当時完成したばかりの聖マドレーヌ教会(1842年に完成)、遠方に見える風車の丘はモンマルトルです。
1748年、パリ市は彫刻家 エドメ・ブーシャルドン(Edme Bouchardon, 1698-1762)にルイ15世騎馬像を発注し、騎馬像を置く場所として、ルイ15世お抱えの建築家
ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel, 1698-1782)が1757年から1772年までかかってこの広場を完成しました。つまりこの広場は王の騎馬像を置く目的で造られたのであり、もとはルイ15世広場という名前だったのです。しかしまもなくフランス革命が起こるとルイ15世騎馬像のもとにはギロチンが置かれ、1793年から1795年の間に2800人もの人がギロチンの露と消えてゆきました。ルイ16世、マリー・アントワネット、ダントン、ロベスピエールらはここで処刑されました。
やがてルイ15世騎馬像は引き倒されて自由の像に変わりましたが、その後もナポレオンは大噴水を、ルイ18世は新しいルイ
15世像を、シャルル10世はルイ16世記念碑をそれぞれ設置しようとするなど、支配者の交替につれてさまざまな計画がもちあがりました。
1833年、ルイ・フィリップは政治的な色のついた再建計画をなくすために、広場の中央にオベリスクを置きその両側にサン・ピエトロの噴水の模作を置くという
イットルフ(Jacques-Ignace Hittorf, 1792-1867)の案を採用しました。オベリスクと噴水以外にも八角形の広場の隅それぞれに八つの都市(リール、ストラスブール、リヨン、マルセイユ、ボルドー、ナント、ブレスト、ルーアン)を表す彫刻、シャンゼリゼの入り口に
マルリの馬の彫刻を置き、1846年に広場はほぼ現在の姿になって今日に至っています。なおオベリスクはエジプト副王メフメト・アリがルイ・フィリップに贈ったもので、もとはルクソールのアモン神殿入り口にありました。また現在広場に置かれているマルリの馬はコピーで、オリジナルはルーブルにあります。
広場の名前も当初のルイ15世広場から革命期にはコンコルド広場、再びルイ15世広場、次にシャルトル広場となり、最後に再びコンコルド広場となって今日に至ります。コンコルド(concorde)とはフランス語で「協調」の意味です。
1784年当時のルイ15世広場(現コンコルド広場)
ブーシャルドンによるルイ15世騎馬像
マルリの馬