アンティーク・フォトグラヴュア 「殉教する愛娘を励ますキリスト教徒」
The Christian
Mother Exhorting Her Daughter to Martyrdom
原画の作者 ルイ・ソゼ (Louis Sauzay)
画面サイズ 縦 202 mm 横 250 mm
1880年代
ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教徒の処刑をいくぶん象徴的に描いた作品です。
宗教が迫害を経験することは稀ではありませんが、なかでもキリスト教に対する迫害は熾烈を極め、人類史上稀に見る規模と残虐さ、殉教者の多さで際立っています。33年から1900年までの殉教者数
1400万人、20世紀の殉教者数2600万人、あわせて4000万人と言われます。(Justin D. Long, More Martyrs Now
than Then? Examining the real situation of
martyrdom) 20世紀の殉教者がとくに多いのは人口が増えたためであって、キリスト教人口全体に占める殉教者の割合は減りつつあると思いますが、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認(313年)以前のローマでは、キリシタン解禁(明治6年)までの日本におけると同様、キリスト教を信じることは死を意味していました。
ローマ皇帝ディオクレティアヌス(Gaius
Aurelius Valerius Diocletianus, c. 240-316 在位
284-305)は平民の生まれで、一歩兵の身分から昇進を重ねてついには皇帝にまでのぼりつめた人です。ひとりの皇帝が治めるには大きくなりすぎていたローマ帝国を東西に二分し、それぞれに正帝と副帝を置いて国内と辺境の反乱を鎮め、後期ローマ帝国の基礎を築きました。
ディオクレティアヌスはローマの伝統を守ろうとしてキリスト教一掃を図り、キリスト教徒のすべての集会所を破壊し、すべての文書を焼却し、すべてのキリスト教徒を処刑すべしという勅令を303年に布告して、ローマ帝国史上10回目のキリスト教徒迫害を開始します。この迫害は規模においても過酷さにおいても前例のないもので、彼が殺したキリスト教徒の数は30万人にのぼりました。当時の人口、またそのなかでもキリスト教徒が少数派であったことを考えれば、これは恐るべき数字です。 しかし「殉教者の血は教会の種である」というテルトゥリアヌスの言葉どおりキリスト教徒の数は増え続けて、ディオクレティアヌスは305年に自ら退位しました。
ちなみに最多の殉教者を出したエジプトでは、多数の殉教コプト教徒(エジプトのキリスト教徒)を記念して、ディオクレティアヌス帝が即位した 284年をコプト暦元年としています。
《この作品について》
この作品では信仰を選ぶか死を選ぶかを迫られている若い女性が描かれています。白い衣を着てユピテル像を手に棄教を迫っているのは鳥占官です。その後ろの男はキリスト教禁教令の札を掲げて人々に示しています。処刑執行人は抜身の刀を提げて皇帝の合図を待っています。処刑目前の女性は髪をほどき、胸に手を当てて天を見上げ、隣では母親が十字架を掲げて、殉教しようとする娘を励ましています。皇帝の後ろに立つ高官たちは死を選ぶキリスト教徒が理解できずにあきれたような表情を見せ、紫の衣を身にまとったディオクレティアヌスは怒りの表情を浮かべて女性たちをじっと見ています。
原画の作者ルイ・ソゼ(Louis
Sauzay)は1840年頃にパリに生まれた画家で、アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres,
1780-1867)、ブーランジェ(Gustave Rodolphe Clarence Boulanger,
1824-1888)のもとで学びました。
《額装例》
額装をご希望の場合、別料金にて承ります。下の写真は一例です。
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