アロンゾ・チャペル作 「カール大帝の戴冠」 細密エッチングとエングレーヴィングによる佳作

Crowning of the Emperor Charlemagne


原画の作者 アロンゾ・チャペル (Alonzo Chappel, 1828 - 1887)

画面サイズ  縦 135 mm  横 198 mm


スティール・インタリオ  1870年



【原画の作者について】

 アロンゾ・チャペル(Alonzo Chappel, 1828-1887)はニューヨークに生まれ、すでに9歳のときには1枚10ドルで依頼者の肖像画を描いていました。12歳のときには1枚25ドルに「値上げ」しましたが、それでもアロンゾ少年が描く肖像画は人気がありました。

 彼は歴史にも強い関心があり、アメリカ史上のできごとを残らず絵にしたいという野心を持っていました。彼は出版社と契約を結んでアメリカ史に取材した絵を描き、出版社は彼の絵をもとにエングレーヴィングを製作しました。アロンゾの絵はいまでも社会科の教科書に使われ、「ワシントン大統領の就任式」という作品はワシントンの大統領就任150周年記念切手にも採用されています。彼が描いた絵は植民地時代から19世紀までのアメリカ史に残る重要なできごとをすべて網羅し、世界史上のできごとにも及んでいます。


【八世紀前半までのヨーロッパについて】

 ヨーロッパ文明がギリシア・ローマ文明、キリスト教、ゲルマン的要素の三つの根を有するとはよく指摘される事実です。この三要素のなかでギリシア・ローマ文明とキリスト教は今日の時代区分では古代に属するできごとで、ヨーロッパ文明が誕生したのはゲルマンがこの二要素に結びついたとき、つまり中世の初めにおいてでした。


 ゲルマン民族の故郷はスカンディナビア半島南部から北ドイツ・バルト海沿岸にかけての地域です。375年、フン族(匈奴)に圧迫されたゲルマン民族がこの地方から西に向かって大移動を開始します。当時ローマ帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分かれていましたが、ゲルマン民族の一派である西ゴート族は東ローマ帝国との戦いで勝利して、帝国の同盟国として現在のブルガリア地方に定住を許され、西ローマ帝国にも侵入を企てます。この様子を見て他のゲルマン民族も次々にローマ帝国、特に西ローマ帝国を相手に戦い始め、西ローマ帝国は大きな混乱に陥って、476年にはついに滅ぼされてしまいます。これによって2つのローマのうちの東ローマ帝国だけが残り、紀元800年までの300年あまりの間、ローマ帝国といえばコンスタンティノープルの東ローマ帝国を指すことになります。


 ところで当時のキリスト教会はローマ皇帝に従属し、コンスタンティノープルの司教はもちろん、 6世紀初め以来パパ(教皇)という特別な称号を得ていたローマ教会の司教も、皇帝の承認を得なければ就任できず、皇帝の意向に反する行動をとることもできませんでした。

 ローマ教会にはイタリア半島自体がゲルマン民族(ランゴバルド族)の支配地にあったことに加え、西方のゲルマン民族に布教しなければならないという特殊事情がありました。そしてゲルマン民族に布教するには、視覚にわかりやすく訴える聖像や聖画が大きな効果を発揮しました。

 ところが726年、コンスタンティノープルのローマ皇帝は聖画像破壊令を布告します。これは布教上の必要からも聖画像に対する崇敬を認めていたローマ教会にとって、とりわけ大きな痛手でした。ローマ教会の司教(教皇)はこの問題をめぐってローマ皇帝と決定的に対立します。

 しかしいくら対立しても、教会がローマ皇帝と絶縁することなど考えられないことでした。なぜならローマ皇帝は国王よりも上位の存在であり、キリスト教世界の唯一の守護者であるからです。ローマ皇帝の聖画像破壊令を受け容れるわけにはいかない。かといってローマ皇帝と絶縁することなど考えられない。ローマ司教は大きなジレンマに陥ります。


【ローマ帝国によるゲルマン国家の統制、及びフランク王国の特殊性】

 ゲルマン民族がヨーロッパを征服したといっても、征服者であるゲルマン各部族は数万人からせいぜい10万人で、キリスト教アリウス派あるいは多神教の信者でした。これに対して被征服者である各地域のローマ系住民は数百万人から1000万人でアタナシウス派(古カトリック)の信者でした。しかもローマ系住民のほうが文化的にはるかに進んでいたのです。ゲルマン人は数の点でも民度の点でもローマ系住民に比べてはるかに劣り、またローマ系住民との間には宗教的対立がありました。


 このような状況のなかで多数のゲルマン国家が成立し機能し得たのは、ゲルマンの各国王がローマの優位を認めてローマに従属し、ローマ皇帝から帝国の高官(執政官、将軍、守護など)の称号を与えられて、ローマ皇帝の代理としてローマ系住民を統治したからです。
 またゲルマン各国家の部族法典は二部門に分かれ、ローマ系住民にはゲルマン人の場合とは別の法律、つまりローマ帝国の領土であった時代と同じ法律が適用されました。つまりゲルマン国家の王はゲルマン人にとってのみ王であり、ローマ系住民にとってはローマ皇帝に任命された執政官にすぎなかったわけです。圧倒的な少数派であるゲルマン人がローマ系住民に受け容れられ、彼らをうまく統治できたのは、このようにローマ(西ローマの滅亡後は東ローマ)の属国的同盟国という地位に甘んじたからです。

 ところが東ローマの属国的地位に甘んじないゲルマン国家がふたつありました。東ローマに反旗を翻してイタリア半島を統一したランゴバルド王国と、東ローマと対立しないまでも疎遠であった北ガリアのフランク王国です。そしてフランク王国がランゴバルド王国を征服するまさにその過程において、ヨーロッパ文明が誕生するのです。


【カールの戴冠 -- ヨーロッパ文明の誕生】

 8世紀後半、フランク王国のカール(シャルル)は他のゲルマン国家を次々と征服し、滅亡前の西ローマ帝国に匹敵するほどの勢力を築きつつありました。ローマ皇帝に圧迫され続けていたローマ教会の司教(教皇)レオ3世は、799年にフランク王国を訪れてカールに窮状を訴え、ローマ教会に対する支援を要請します。

 翌800年の晩秋、カールは大軍を率いてローマにやってきました。12月25日、クリスマスのミサに出席するためにサン・ピエトロ聖堂を訪れたカールの身に、思いがけないことが起こります。祭壇に向かって跪いて祈りを終え、立ちあがろうとしたカールにレオ3世が近づき、彼の頭に皇帝冠を置いたのです。当時の年代記記者アインハルト(Einhard)によると、カールは予期しない突然の戴冠に驚き、「あのようなことが起こると分かっていれば聖堂には行かなかったであろう」と語ったといいます。しかし文明史の流れは個人の思惑を超えて事件の当事者を運んでゆきます。ゲルマン人であるフランク国王カールがローマ教皇により西ローマ皇帝として戴冠させられたこの瞬間に、ヨーロッパ文明が誕生したのです。


 この作品にはクリスマスの飾りつけをされた祭壇に向かって跪くカールと、皇帝冠を手にカールに近づくローマ司教レオ3世が描かれています。800年のサン・ピエトロ聖堂は現在とは違ってバシリカ式の小さな建物です。

 当時はヨーロッパ文明という概念はなかったのですから、カールについて来た兵士たちはもちろん、突然の出来事に戸惑うカール自身も、さらにレオ3世自身でさえも、いままさにひとつの文明圏が誕生しようとしているということなど理解していないでしょう。この一瞬の出来事が文明史のうえでどれほど大きな意味をもつかということは、数百年後に明らかになるのです。


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